動画コラム「鉄道が大井川流域の生活を変える」
大井川から現地レポート。
牧之原台地でお茶の栽培がさかんになったのは大井川に橋がかかったことと江戸時代の終焉に関係します。
全国のお茶の生産量の約4割を占めるのが静岡県。栽培面積・生産量共に全国第1位。県内には、富士山麓、安倍川、天竜川、大井川流域など、お茶の栽培に適し、自然環境を活かした銘産地が並びます。
県中央に広がる牧之原台地の生産量は静岡全体の4割ほど。島田市、牧之原市、菊川市にまたがる標高200メートルの台地に総面積5000ヘクタールの茶園が広がり、新茶の季節になると辺りは萌黄色に染まります。
江戸から明治に移り、世の中は大きく変化しました。
明治維新により最後の将軍、徳川慶喜は静岡に移り住んみました。多くの家臣が彼に従ったが、領地は大幅に縮小され、彼らの生活を支えることができませんでした。
明治2年、この地に旧幕臣二百数十人が入植。困窮の果て「座して無為の日々を送るより大地と格闘しよう」を合言葉に刀を鍬に持ち替えました。家臣たちは新しい産業を育成し、自立する必要がありました。
開国により海外貿易が始まり、お茶は生糸に次いで第2位の輸出品でした。明治後期には全国の生産量の6割が静岡で生産され、その8割が米国向け。米国で当時「ティー」といえば緑茶を指し、砂糖とミルクを入れて飲ました。ちなみに唱歌『茶摘み』の舞台は静岡とされています。「「摘めよ、摘め、摘め、摘まねばならぬ。摘まにゃ、日本の茶にならぬ」。わざわざ「日本の」と断るのは輸出品だからという推論です。
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