荒川流域の歴史と地理 橋本淳司

原始河川と沼沢を抱えた巨大三角州

雨が降り、雨水が集められ流れゆく範囲を流域という。雨が流れて川となり、いくつもの川が一筋の流れにまとまって大海へ注ぐ。

土地のデザインは昔から水が行ってきた。水は山を削り、土砂を運び、積む。流域の姿は水の流れとともに変わってきた。

流域と人の営みを、歴史、地理、民俗という視点からまとめてみることで、何らかの示唆が得られるのではないか。いま日本の社会が抱えているさまざまな課題を流域という単位で再編集することで解決の糸口が見つかるのではないか、サスティナブルな暮らし方に近づくのではないかと期待している。

早春、東京都北区を歩いた。赤羽自然観察公園内に水が湧き出していた。同行した人たちは23区内の湧き水に歓声を上げ、手で触れた。「温かい!」。地下水の温度は早春の外気温より高い。   ここは自衛隊駐屯地を整備してできた公園で、植物は在来種を残すなど熱心な自然保護活動が行われている。湧水は「東京の名水57選」の1つであり、水鳥の池に注いでいた。春になったら田んぼにも流すのだという。

志茂・岩淵町の辺りには秩父山系からの良質の浦和水系が走り、地元の人は「昔はちょっと掘ると水が2メートルも噴き出した」と言う。

新荒川大橋のたもとには1878年(明治11)創業の東京23区唯一の蔵元「小山酒造」があった。地下水を利用して清酒「丸真正宗」が作られていたが、残念なことに今年廃業してしまった。豆腐店や銭湯はいまなお多く、赤羽周辺の銭湯はおおむね地下水利用だ。水温は年間を通して16℃前後。1日約15トンの地下水を汲み上げる「テルメ末広」は、北区と連携し災害時は水の提供を行なう。

水の恵みと同時に脅威を体験した土地でもある。街のあちこちで水難供養のお地蔵さんに出会う。岩淵町の鎮守社である八雲神社は敷地全体を土盛りした水屋になっている。熊野神社の本殿も土盛りした水塚になっている。荒川対岸にあった梛野原稲荷神社と渡し場にあった水神宮が遷座し、境内に祀られていた。

王子駅近くの「北とぴあ」という施設の17階は展望ロビーになっていて関東平野が一望できる。都市を縫うように眼下に荒川と隅田川。直線的で幅広い荒川の横を、隅田川が少し蛇行しながら並走する。河川敷は野球場やゴルフ場などにも利用され、整備された道をサイクリングやウォーキングで利用する人もいる。ブルーシートで覆われた小屋も見え、ホームレスの暮らしもあり、すぐそばまで高層マンションやビルが迫っている。

原始河川と沼沢を抱えた巨大三角州

当たり前のように水の流れを見ているが、荒川が現在の姿になったのはごく最近のこと。京浜東北線の上野駅から赤羽駅の間には波によって削られた崖(=海食崖)が続いている。縄文海進時の海食崖や入り江が複雑な地形を作っていて、かつてここが海であったことを忍ばせる。

近世までの関東平野は、複雑に絡み合う原始河川と点在する沼沢を抱えた巨大三角州だった。利根川、荒川は江戸初期まで、現在の古利根川、元荒川の河道を南に下り、中川低地を経て東京湾に注いでいた。

低湿地であるため、しばしば洪水に見舞われてきた。

平安時代に編纂された歴史書『三大実録』には「武蔵国去秋水勞(武蔵国で昨秋(858年)水害)」とあり、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』には「建仁元年(1201)8月の暴風雨で、下総葛飾郡の海溢れて4000人余が漂没」と記されるなど、数多くの水害の記録が残っている。そうした土地に巨大都市東京が形成されたことは極めて不自然に思う。

オランダには「世界は神によって創られたがオランダはオランダ人が作った」という言葉がある。

国土の27%が海抜0メートル以下、国土の3分の1が埋立地。アムステルダム国際空港は海面より4メートル下、目線より高いところにあるヨット、アムステル川の河口の埋立地にある中央駅などからもオランダが低い土地にあるとわかる。

オランダの象徴ともいえる風車は排水のためのものだ。排水用風車は水害を防ぐだけでなく、湿地帯を農地や牧草地に変え、オランダを農業大国に育てる役目も果たし、19世紀半ばには約1万基が稼動していた。

水を克服しようという思想や技術によって前出の言葉が誕生したわけだが、東京の場合はどうなのか。

甲武信岳から東京湾まで173キロ

全長173キロにおよぶ荒川の一滴は埼玉県秩父山地の甲武信岳(標高2475メートル)にはじまる。甲武信岳はその名の通り、甲斐国(山梨)、武蔵国(埼玉、東京)、信濃国(長野)の境に位置する。山岳地帯には、中津川、滝川、大洞川等の支川が刻む深いV字形渓谷が形成され、それらの支流を合わせながら東へ流れる。

 秩父の自然は美しく、中でも天然記念物に指定されている長瀞渓谷は絶景だ。渓谷や岩畳だけでなく、蝋梅、福寿草、桜、芝桜、シャクナゲ、ポピー、菖蒲、女郎花、蕎麦、コスモスなど、四季折々の花が楽しめる。

この地の「武甲山伏流水」は「平成の名水百選」に選ばれている。秩父市の市街地をうるおす豊富な水量にめぐまれた地下水だ。この水は、日本三大曳山祭の1つである「秩父夜祭」の起源となり、古くから地域の発展を支え、地域の伝統や文化に大事な役割を果たしてきた。現在でも秩父神社の田植え祭では秋の豊作を願ってこの水が供えられるほか、宮地地域の人たちが生活用水に使っている。地域の特産物に日本酒があるが、「武甲酒造」では仕込み水にこの名水を使う。石灰岩質の土壌をくぐり抜けた水は比較的カルシウムを多く含み、コクとキレを併せ持つ酒を育んでいる。

 山岳地帯を抜けると勾配が緩やかになる。中流部の勾配は「1/1000〜1/5000」。これは「1メートルを1キロかけて流れる勾配」から「1メートルを5キロかけて流れる勾配」があるという意味。荒川は川幅が「日本一」であることで有名で、鴻巣市・吉見町付近で約2・5キロと最も広がる。この地区には「川幅」を冠した食べものがあり、「川幅うどん」「川幅ロールケーキ」「川幅せんべい」などあるが、いずれも横幅がかなり広く食べごたえがある。

 川は笹目橋付近で都内に入ると河道は幅約500メートルと急激に狭まり、両岸は密集した市街地となる。さらに前述した東京都北区岩淵で隅田川と分かれ、そこから先は荒川放水路として東京湾に注いでいる。

土地のデザインは水が行うと前述したが、それには自然のものと人工のものがある。市街地を流れる隅田川が典型的な都市型の川のように見えるのに対し、ヨシ原や野鳥などが見られる荒川下流は自然の川のように見える。

しかし、東京の洪水被害をなくすために約100年前につくられた人工の川というのが実態で、1965(昭和40)年に「荒川放水路」から「荒川」に呼称を改め、荒川本川下流に位置づけられた。

一方、かつて江戸庶民に親しまれた隅田川は放水路開削の頃から汚染が一気に進んだ。メタンガスが発生したために、金糸を使った高級着物が黒く変色し、芸者さんが屋形船に乗らなくなったという。高度経済成長期の隅田川に関する市民アンケートでは、「埋めてしまえ」という意見が圧倒的に多く真剣に埋め立てが検討されたこともあった。屋形船が行き交い、夏に花火大会が催される今では考えられないことだ。

人が水の流れを変えた歴史

少しの時計の針を巻き戻し、荒川の変遷を振り返ってみたい。

1948(昭和23)年、埼玉県南埼玉郡和戸村(現在の宮代町)の元荒川河岸で丸木舟が発見された。長大で船首は尖り、船尾が四角形という形状から古墳時代から奈良時代のものであるとされている。

こうした船は貴重なタンパク源であった鯉、鮒、鰻などを獲る目的で使用されていたもので、輸送目的ではない。古代の利根川、荒川の下流域はいずれも湿地か浅海で通行は困難だった。舟運も香取、鹿島地方をのぞけばあまり発達せず、文献にもほとんど出てこない。

鎌倉時代には、川の流れを活かした耕地開発が始まった。鴨長明が編纂した『発心集』に武蔵国入間川のほとりに堤防を築き、その内側に田畑を作ったという記述があるが、そのほかにも元荒川筋の鴻巣市と吹上町(現在の鴻巣市)の境界付近に箕田堤、太田庄堤、熊谷市付近の荒川左岸に熊谷堤などが作られた。

室町時代から安土桃山時代にかけては後北条氏が、川島町の入間川と熊谷・鴻巣市周辺の元荒川筋に堤防を築いたことが記録に残っている。それでも川の流れそのものに手をつけることはなかった。

戦国時代になると領主は治水に力を注いだ。

当時は宗家の当主を中心に一族が結束し、農民と武士を兼ねた集団=地侍として土地や財産を自衛していた。 利害が共通する地侍が盟主の基に集まり、盟主のリーダーである領主が大名となって統括した。

なぜ領主は治水に尽力したか。それは干ばつや洪水に悩まされることなく米作りができ、収量が安定すれば、地侍は精神的、経済的に豊かになり、領内の経済的活力が大きくなれば、領主の力が増強するからだ。やがて、川の流れは城館の防御や水運に利用され、水運による物資の集積はやがて城下町を生み出した。まちにとって川は重要なインフラになった。

流れを受容する関東流、制圧する紀州流

江戸時代になると大河川の治水工事が行われるが、とりわけ重視されたのは、政治経済の中心地へと向かう利根川筋、淀川筋の治水だった。江戸市中を水害から守るとともに、奥羽からの船が江戸に入る際、房総沖の風雨を逃れるためにも、利根川利用の水路を開く必要があった。

大工事を担当したのが、関東郡代伊奈備前守忠治ら伊奈一族だった。家康の命を受けた忠治は「利根川の東遷、荒川の西遷」と呼ばれる瀬替えを行った。利根川と荒川を切り離すという大規模な河川改修である。荒川は久下村(熊谷市)で締め切られ、和田吉野川、市野川、入間川を本流にする流れに変わった。これにより埼玉県東部の新田開発や舟運が進み、舟運によって集まる物資により江戸は成長していく。

伊奈氏が用いた工法は「関東流」と言われる。その特徴は、自然の流れを柔軟に受け入れる点にある。

川幅を広くし、堤外地(堤防に挟まれて水が流れている側)を流作場(湖沼や河川の沿岸にある堤外の新田)として残し、さらに本堤の外に小さな堤を付け加えて二重の堤を作った。また、洪水の処理には、霞提、乗越提、遊水池といった河川を溢れさせて水の勢いをそいだ。

農地に肥沃な土砂が流入し、流域内に点在する沼沢や低湿地を縮小させて農地の造成を促すなどのメリットがあったが、人口が増えて居住地が拡大すると水に浸かる土地も増えた。さらに用水地と排水地が兼ねられていたため、下流の用水を確保しようとすると、上流は排水困難な状況になり、上流と下流の村が対立することもあった。

江戸中期になると治水方法は大きく変わる。8代将軍吉宗は新田開発を奨励し、紀州から井沢弥惣兵衛為永を召集、彼のもつ土木技術を採用した。いわゆる紀州流である。

紀州流は、蛇行していた河道を強固な築堤と川除・護岸などによって直線状に固定した。大河川中・下流に高い連続堤が建設され、水は河川敷の中に押し込められた。これにより流作場や遊水地は廃止され、放置されていた中流の遊水地帯や下流の乱流デルタ地帯の新田開発が進められた。

関東流から紀州流への転換の典型例は、見沼代用水だろう。見沼は現在のさいたま市に存在した大きな沼で、上流の排水池であるとともに下流の用水源だった。寛永6(1629)年、伊奈忠治が八丁堤により嵩上げして用水溜井を作り、ここから東縁用水と西縁用水を開削して下流の新田開発が行われた。

しかし、享保期になると耕地開発は限界に達し、用水排水をめぐる上流と下流のトラブルは激化した。 そこで井沢弥惣兵衛為永は、見沼を干拓し新田を拓き、十数里におよぶ大用水路を建設した。見沼代用水は、利根川から見沼たんぼまで多くの水路や道路を横断しなければならない。そのため川の下に木造の水路で水をくぐらせる「伏越」を53基、川の上に水路を渡す「掛渡井」を4基、関枠(取水口)は大小合わせて164基、主要な橋は(石橋・土橋合わせて)90ヵ所設置された。とくに元荒川をくぐらせた伏越 、綾瀬川の上を渡した掛渡井は重要構造物として知られている。こうして見沼に始まる見沼溜井は約1200町歩(1町歩は3000坪)の新田に替わり、毎年5000石もの年貢米を生産する実りの土地となった。

舟運の発達

鉄道や自動車などの陸上運輸機関が未発達であった江戸時代から明治時代の中頃まで、舟運は最盛期にあった。米や材木をはじめとする大量の物資を安い運賃で輸送できた。

河岸は江戸時代に生まれた言葉で、荷さばき場のある船着場を指す。新河岸川は川越と江戸を結ぶ舟運路だった。新河岸川の舟運は、寛永15(1638)年に江戸から川越東照宮の再建資材を運搬したことに始まり、明治期まで物資輸送の中心となった。

川越方面からは米穀類、材木、薪炭、ソーメン、ゴザなど、江戸からは肥料、塩、小間物、雑貨、綿糸、石材等が主に運ばれた。引又(志木)河岸ではこれらの品物の他にも、青梅の薪炭、所沢の壁土、所沢・村山・八王子の織物、甲府の葡萄・生糸、幕末以降は所沢・三芳のさつま芋などが集まって来た。天保年間からは乗客も運ぶようになった。

このころの新河岸川は九十九曲がりと言われたほど蛇行を繰り返していたが、一説には舟の運行のため水位を上げようと、わざと曲がりを増やしたと言われている。

荒川放水路の開削工事

明治に入ると「富国強兵」のスローガンのもと、東京は近代都市化が進められた。隅田川沿いには多くの工場ができ、労働者の流入による人口増加と市街地拡大が起こった。

荒川(隅田川)では相変わらず洪水が頻発していたが、とりわけ1910年(明治43)8月の洪水では、氾濫した水が日本堤や隅田堤を越えて東京の市街地に入り、浸水家屋27万戸、被災者150万人という甚大な被害をもたらした。

これをきっかけに荒川改修計画が持ち上がった。

鴻巣市と吉見町にまたがる「川幅日本一」の河川敷には2つの横堤がある。首都を水害から救うことを目的に建設された堤防だ。

通常の堤防は、河川の氾濫を防ぐ目的で河川に平行して作られる。

ところが横堤は垂直に作られている。広い河川敷を利用し、河川の水を一時的にプールし、下流における洪水被害を防ぐ目的で作られた。

しかしながら河川敷は農耕地で、何軒もの農家の暮らしがあった。横堤が完成すれば、増水時に河川敷に大量に溜まり、農家は水没する。そこで河川敷の農家は堤防を越えた場所や横堤の下流側に居住地を求めて移転した。現在でも河川敷には今はなき農家の屋敷森らしき景観を見ることができる。

下流域では放水路の開削が始まる。岩淵から東京湾まで延長22キロ、川幅は上流部455メートル、河口部588メートル、水深は約3~4メートルという大規模な工事で、移転を余儀なくされた住民は1300世帯に上った。河川改修は常に多くの犠牲の元に行われる。工事は当時の最新技術を導入し、人力、機械、船を駆使して進められた。シャベル付き蒸気掘削機で掘削した土砂を、トロッコを連結した機関車で運んだ。

1924年(大正13)の岩淵水門完成によって上流から下流までつながり、その後も関連工事が続けられ、1930(昭和5)年、20年にわたる大工事の末に荒川放水路は完成した。

荒川放水路は妙な形をしている。放水路は隅田川が溢れないためのバイパスだ。

道路はバイパスのほうが長くてもいいが、河川のバイパスは水を早く流すのが目的だから通常は本川より短い。

 ところが、荒川放水路は当時の本川より長い。利根川や荒川の洪水から帝都を守る意味合いが大きかったからだ。放水路開削当時の堤防は、右岸のほうが天端幅が広かった。水の流れを考慮してのことだろう(現在は左右岸とも同じ幅になっている)。1947年(昭和22)のカスリーン台風時に利根川で堤防が切れ、氾濫した水は放水路の左岸まで到達した。都心には達しなかったが、放水路は隅田川だけでなく利根川の洪水から帝都を守るためのものであったことわかった。東京でも荒川左岸の葛飾区、足立区、江戸川区は大洪水のときに被害を被る立場だった。

荒川放水路開削後、江戸川区では中小の工場ができ、燃料には天然ガスが使われた。天然ガスは地下水を汲み上げながら採取するため地盤沈下が起こった。江東区は水運を利用した工場地帯で、水路沿いには工場が林立した。工場では大量の地下水を汲み上げたためこちらでも地盤沈下が発生した。最も沈下したのは放水路が完成した後で4メートルも下がった。

流域の課題を共有する

荒川の流れが形成されるまでをダイジェストで見てきたが、荒川流域には自治体を越えて取り組む課題がある。

たとえば、甲武信岳からしみ出た清らかな水の流れは、百数十キロの旅路を経るうちに、緑とも茶ともつかない濃い濁りに変わっていく。荒川流域には980万人が住む。

どぶ川からは生活雑排水が流れ込み、護岸はコンクリートで覆われ、さまざまな飼育魚が捨てられ、ピラニアなど熱帯の珍魚も生息している。水中の酸素量が少なくなる「貧酸素化」も進んでいる。貧酸素化が進むと貝類や底性生物が死滅し、水質は悪くなる。また、土壌から溶出したリン酸が植物プランクトンの発生を助長し、さらに貧酸素化を促す。貧酸素化は、荒川の川底だけではなく、河口の東京湾でも進んでいる。

上流の森は担い手不足で荒れはじめている。森が荒れれば貯水機能は弱まり、水害リスクは高まる。堰やコンクリート護岸だけに頼り、水と流れを封じ込める治水対策は、自然環境や生態系の連続性を破壊し、しかも甚大な被害を生むリスクも内包する。

下流域の河川敷にはたくさんのペットボトルやレジ袋が落ちている。東京湾で捕獲したカタクチイワシの八割近くからマイクロプラスチックが見つかっている。捨てられたレジ袋やペットボトルなどが、雨で川に流れ海に至り、そこで紫外線や波の力によって次第に小さくなっていく。カタクチイワシやマイワシは、吸い込んだ水をえらでろ過してプランクトンを食べるため、餌と一緒にマイクロプラスチックを飲み込んでいる。

こうした課題を流域の問題として共有し、解決していくことが大切なのだが、そのためにもまずは自分がどの流域に所属しているかを知る必要があるだろう。○○県人、○○市民などと同じように、○○流域人という言葉が定着するとよいと思う。

著者:橋本淳司(aqua-sphere編集長)